この物語はシリーズでお届けしています。
▶ 第1章:出会い から読む
彼が帰っていく先には、温かな家庭がある。
その現実を知りながら、私は彼を手放せなかった。
不安と期待のはざまで

あの夜から数日、彼とのやり取りはむしろ増えていた。
お店に来なくなってからは、毎日のようにLINEで会話を交わすようになった。
逢うことはできなくても、やり取りを重ねるたびに、なぜか以前よりも彼が近くにいるような、不思議な感覚があった。
それでも、やはり文字だけでは満たしきれないものがある。
スマートフォンを閉じた瞬間、ふっと現実に引き戻される。
その空白が、余計に彼を求めさせた。
そんなとき、ふいに届いたメッセージ。
『週末、会えますか?』
短い一行。
けれど、それは私の胸を一瞬で熱くさせる魔法の言葉だった。
『会いたいです』と返すと、すぐに「じゃあ、久しぶりに出かけましょう」と返事がきた。
お店ではなく、二人だけで。
それは、私にとって初めての彼との「本当のデート」になるはずだった。
初めての休日デート

待ち合わせは、都心から少し離れた静かな駅。
春の柔らかな風が街路樹を揺らし、駅前の広場は週末にしては人影が少ない。
約束の時間より早く着いた私のもとに、カジュアルな服装の彼が現れた。
作業着ではない彼を見るのは初めてだ。
ニットの白いTシャツ、落ち着いた色のデニム。
その姿に、思わず心の中で息を呑む。
「待たせちゃった?」
「いえ、私が早く来ただけです」
歩き出すと、彼は自然に私の歩幅に合わせてくれる。
手は繋がない。
けれど、その距離はお店の中で感じていた距離よりも、ずっと近かった。
カフェで見た断片

昼食を終え、彼が選んだカフェに入る。
木目調のインテリアと柔らかな照明。
窓際の席に並び、温かいコーヒーを口に運ぶ。
「こうやって外で奈緒さんと会うの、やっぱり不思議だな」
「私もです」
笑顔で交わす何気ない会話。
けれど、ふとした瞬間に心がざわついた。
彼がポケットからスマートフォンを取り出し、テーブルの上に置いたとき
画面にちらりと映る淡い文字、そこに見知らぬ女性の名前が一瞬表示された。
すぐに目を逸らした。
でも、その短い名前が頭の奥に残り、会話の合間に何度もよみがえる。
彼はスマホを伏せ、何事もなかったように話を続ける。
けれど、私の耳には、彼の声の奥に、別の世界の音が微かに混じっているように感じられた。
微笑みの裏側

カフェを出て、川沿いの遊歩道を歩く。
水面に反射する光が、ゆらゆらと揺れている。
隣を歩く彼の笑顔は穏やかで、優しい。
「奈緒さん、楽しい?」
「……はい、もちろん」
本当は、さっきの一瞬が胸に小さなトゲ
彼の隣にいる幸福感と、その背後にあるかもしれない影。
二つの感情がせめぎ合っていた。
影が近づく

夕暮れ、駅に向かう途中。
彼のスマートフォンが再び震えた。
面を確認する一瞬の表情。
驚きとも焦りともつかない揺らぎ。
「ごめん、ちょっと出るね」
そう言って数歩離れ、電話に出る。
声は抑えられていて、内容までは聞き取れない。
それでも、最後に「今から帰る」と言ったその言葉が、胸に重くのしかかる。
置き去りにされた心

改札前で立ち止まった彼が、私の目を見て言う。
「今日はありがとう。また会おう」
優しい声。
けれど、心の奥で何かが静かに冷えていく。
一人になった帰り道、私は考えていた。
あの通知の名前は誰だったのだろう。
あの電話の相手は誰だったのだろう。
答えは、どこにもない。
ただ、彼と過ごす時間が深くなるほど、罪の影もまた濃くなっていく。
次回予告

彼が帰っていく先を、私は知っている。
愛おしさと罪悪感、その両方が胸を締めつける。
次回「許されない幸福」――背徳と歓びが交差する夜。
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