この物語はシリーズでお届けしています。
▶ 第1章:出会い から読む
あの夜、私たちの間にあった最後の境界線が静かに崩れ落ちた。
彼の手が私に触れた時、もう後戻りはできないと悟った。
いつもと違う彼

あのバーでの夜から2週間が経っていた。
彼は相変わらず店に通ってくれていたが、何かが確実に変わっていた。
以前のような穏やかな会話の中にも、どこか切なさが混じっている。
お互いに言葉にできない想いを抱えながら、それでも「友達」という関係を維持しようと必死になっていた。
「奈緒さん、最近疲れてませんか?」
この日、彼はいつものように私の隣に座りながら、心配そうに顔を覗き込んだ。
「え?そんなことないですよ」
とっさにそう答えたが、実際のところ、最近はよく眠れない夜が続いていた。
彼のことを考える時間が増えて、この感情がどこに向かっているのか、自分でもわからなくなっていた。
「無理しないでくださいね。僕、奈緒さんに何か辛いことがあったら……」
彼は言いかけて、ふと口を閉じた。
その未完の言葉に、私の胸は締め付けられるような思いがした。
彼もまた、私と同じように悩んでいるのだと感じた。
この関係をどう捉えていいのか、どこまで踏み込んでいいのか、きっと彼も迷っているのだろう。
「ありがとうございます」
私は小さく答えた。
その一言に、どれだけの想いを込めたかは、彼には伝わらなかっただろう。
でも、彼の優しさが、私の心をさらに彼に引き寄せていた。
言葉にならない想い

その日の彼は、いつもより口数が少なかった。
時々、何か言いたそうな表情を見せるのに、結局言葉にはしない。
私も同じだった。胸の中にある想いが、喉まで出かかっているのに、最後の一歩が踏み出せない。
「奈緒さん」
突然、彼が私の名前を呼んだ。いつもより真剣な声で。
「はい」
私も、いつもより緊張した声で答えた。
「僕は……」
彼は深く息を吸い込み、そして続けた。
「僕は、奈緒さんと出会えて本当に良かったと思っています。最初は、こんな気持ちになるなんて思ってもみませんでした」
その言葉に、私の心臓は激しく鳴り始めた。
「でも、これは間違っているんですよね」
彼の声は、苦しそうだった。
「僕には家庭があって、奈緒さんは……」
「わかっています」
私は彼の言葉を遮った。
「わかっているんです。でも……」
今度は私が言葉に詰まった。
でも、あなたのことを想ってしまう。
あなたと過ごす時間が一番幸せで、あなたの笑顔が見たくて、あなたの声が聞きたくて。
心の中でそう叫んでいても、それを口にすることはできなかった。
沈黙が流れた。
重くて、でも不思議と心地よい沈黙。
お互いの気持ちがわかっているからこそ、言葉にする必要がないような、そんな時間だった。
触れてしまった手

「奈緒さん」
再び彼が私の名前を呼んだ時、その声はいつもよりもずっと近くに感じられた。
振り返ると、彼の顔が思っていたよりも近くにあった。
私たちの間の距離は、いつの間にかほんの数センチになっていた。
「僕、もうだめかもしれません」
彼の囁くような声が、私の耳に届いた。
「友達として見ることができなくなってしまいました」
その瞬間、私の理性の最後の糸が切れた。
「私も……」
やっと出てきたその言葉と共に、彼の手が、そっと私の手に触れた。
電気が走ったような感覚。
これまで何度も、触れそうで触れなかった手と手が、ついに重なり合った。
彼の手は温かくて、少し震えていた。私の手も同じように震えていたと思う。
「奈緒さん」
彼が私の名前を呼ぶ声は、これまでとは全く違っていた。
女性として、一人の人間として私を見つめる、深い愛情のこもった声だった。
私は何も言えなかった。
ただ、彼の手の温もりを感じていた。
この瞬間、私たちは確実に線を越えた。
もう友達ではいられない。
お客さんと風俗嬢という関係でもいられない。
私たちは、男と女になった。
壊れゆく境界線

手と手が触れ合った瞬間、世界が静かに色を変えた。
彼の手が私の手を包み込み、私も自然とその温もりを握り返す。
「これで、もう迷う理由はありませんね」
彼が低くつぶやく。
「はい」
かすれた声で答えた。
「私は、ただあなたを愛している。それだけです」
その言葉は、私の心の奥底からこぼれ落ちた本音だった。
確かに、私たちの関係は許されないかもしれない。
彼には家庭があり、私には私の生活がある。
それでも、周りの誰の顔も浮かばない。
今この瞬間、私の目の前にいるこの人だけがすべてだった。
「奈緒さん」
彼がもう一度名前を呼び、そっと私の頬に触れる。
その手は、これまでの“お客様”としての手ではなく、私をひとりの女性として愛してくれる男性の手だった。
私は目を閉じ、その体温を、想いを、全身で受け止めた。
「好きです」
彼の口から、はっきりとその言葉がこぼれる。
「僕は、奈緒さんが好きです」
胸の奥が熱くなる。
こんなにまっすぐな愛を向けられたのは、いったいどれくらいぶりだろう。
風俗嬢として働き始めてから、私は自分が愛される資格を持つのか、ずっとわからなくなっていた。
でも、彼の言葉がその迷いを溶かし、私の中の傷を優しく包み込んでくれた。
「私も……」
息を整え、心の奥からあふれる想いを口にする。
「私も、あなたが好きです」
その瞬間、彼の顔が光に包まれたように輝いた。
子供のように無垢で、どこまでもまっすぐな笑顔。
その笑顔を見ていると、この人となら、たとえすべてを失っても構わないと思えた。
罪悪感という名の現実

でも、幸福感と同時に、重い現実が私の心をじわじわと押し潰そうとしていた。
彼には、妻がいる。まだ幼い子供もいる。
そして私は、風俗嬢。
彼は、私のお客さん。
どこからどう見ても、この関係は間違っている。
それは、誰よりも私たち自身が一番わかっているはずだった。
「奈緒さん、考えすぎないで」
私の顔に浮かんだ迷いを読み取ったのか、彼がそっと言った。
「今は、ただこの気持ちを大切にしませんか?」
その言葉に、私は彼の目をまっすぐ見つめた。
そこには確かな愛情が宿っていた。けれど同時に、深い影も見えた。
きっと彼も苦しんでいるのだろう。
家族を裏切っているという罪悪感。
そして、私がこの仕事を続ける限り、いつかは終わりが訪れるかもしれないという不安。
けれど、彼は私にこの仕事を辞めてほしいとは、一言も言わなかった。
「……はい」
私は小さくうなずいた。
確かに、今すぐ答えを出す必要はないのかもしれない。
この想いが正しいのか、未来がどうなるのかは、誰にもわからない。
けれど、この瞬間の感情は紛れもなく本物だった。
彼への愛情も、彼からの愛情も、すべてが真実だった。
「時間ですね」
彼が時計を見て、名残惜しそうに言った。
「はい」
私も同じ気持ちだった。
今日この瞬間から、私たちはもう単純な関係ではいられない。
でも、それでも彼と一緒にいたいと思った。
「また、明日」
彼が帰り際に言ったその言葉は、これまでとはまるで違う響きを持っていた。
恋人同士が交わすような、親密さに満ちた「また明日」。
「はい……お疲れさまでした」
私も同じ温もりを込めて答えた。
彼が部屋を出た後、私はひとり静かに座り込む。
手のひらには、まだ彼の温もりが残っていた。
これから私たちはどうなるのだろう・・・。
不安と期待が入り混じった、複雑な想いで胸がいっぱいだった。
でも、一つだけ確かなことがある。
私は彼を愛している。
そして、彼も私を愛してくれている。
それだけは、絶対に揺るがない事実だった。
次回予告

触れてしまった瞬間、世界が変わった。
後戻りできないと知りながら、胸の奥は確かに震えていた。
次回「秘密の時間」――二人だけの小さな楽園へ。
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