この物語はシリーズでお届けしています。
▶ 第1章:出会い から読む
外の世界から切り離された二人だけの空間。
そこでは私は「風俗嬢」ではなく、ひとりの女として息をしていた。
秘密の約束

あの夜、彼の腕の中で互いの想いを確かめ合ってから、一週間が過ぎていた。
部屋に残っていた彼の温もりは日に日に薄れていくのに、私の胸に刻まれた想いだけは、ますます色濃くなっていった。
仕事中、スマートフォンの通知音が鳴るたびに、彼からではないかと期待してしまう。
けれど、画面に映るのは別の名前ばかりで、そのたびに小さくため息をつく。
あの夜の出来事は、ただの一夜の過ちだったのだろうか。
不安が、黒いしみのように静かに心をむしばんでいく。
そんな諦めにも似た感情が芽生えかけた、ある平日の夜。
仕事を終え、静かな部屋でぼんやりとテレビを眺めていると、手元のスマートフォンが短く震えた。
画面に浮かんだのは、彼の名前。
ドクン、と心臓が大きく一度跳ね、そこから鼓動がはやくなった。
『また飲みに行きませんか?』
たった一行の、シンプルなメッセージ。
けれど、その一言が持つ意味はあまりにも重く、そして魅力的だった。
店の外で会ったのは、あの夜一度きり。
「お客様」と「風俗嬢」という鎧を脱ぎ捨て、ただの男と女として過ごす幸福と危うさを、私はもう知ってしまっていた。
『はい。会いたいです』
迷うことなく、指先は素直な本音を打ち込んでいた。
希望と不安が胸の中で渦巻きながら、私は彼との二度目の「秘密」の約束を交わした。
揺れる会話、そして宣告

約束の夜。
待ち合わせは、駅前の喧騒から少し離れた隠れ家のような居酒屋だった。
二人で並んだカウンター席。
店内のざわめきが遠のくように、私の意識は彼の一挙一動に吸い寄せられていた。
仕事帰りの作業着姿の彼は少し疲れているように見えたが、私を見る眼差しはあの夜と同じ熱を帯びている
「来てくれて、ありがとう」
「こちらこそ、誘ってくれて嬉しかったです」
ぎこちない会話。
時折触れ合う肘。
その小さな接触だけで全身の血が熱くなる。
お酒の力がなければ、まともに彼の顔を見ることすらできなかった。
他愛のない話がひと段落した頃、彼がふっと真剣な表情になる。
「奈緒さん、お話があります」
真剣な声に、心臓が早鐘を打つ。
一瞬で酔いが醒め、グラスを持つ手がわずかに震えた。
あの夜のことを後悔しているのだろうか?
やはり間違いだったと告げられるのだろうか?
最悪の予感が頭をよぎる中、彼の口から放たれた言葉は・・・。
「もう、お客としてお店に行くのは辞めます」
息が止まった。世界から音が消える。
それは別れの宣告のように響いた。
ああ、やっぱり夢だったのだ。
彼は現実に戻るのだ。妻と子供のいる、温かな家庭へ。
私はまた一人、この薄暗い世界に取り残される
そう思った瞬間
奈落の底で見た光

「……そう、ですか。今までありがとうございました」
精一杯の笑顔を作った私に、彼は驚いたように目を見開き、慌てたように私の手を掴んだ。
「違う、奈緒さん、違うんだ!」
焦った熱が手のひらから伝わる。
「それは奈緒さんとの関係を終わらせたいからじゃない。逆なんだ」
……逆?
絶望で凍り付いていた思考が、ゆっくりと溶けていく。
「僕はもう、奈緒さんを『お店の女の子』として見られない。お金を払って会う関係じゃなく、一人の女性として向き合いたい」
その言葉は、私がずっと心の奥で願っていた、一番聞きたかった言葉だった。
にじむ視界が今度は嬉しさでゆがみ、彼の手が静かに涙を拭う。
現実に引き戻す音

幸せは、いつも儚い。
彼が私の手を包み込んでいた、その時。
テーブルの上のスマートフォンが震えた。
無機質な電子音が、温かい夢をやぶる冷たい目覚まし時計のように響く。
画面を見た彼の顔から、一瞬で表情が消えた。
優しい恋人の顔から、「夫」の顔へと変わっていく。
見なくてもわかる。
その相手を。
「ごめん、ちょっとだけ」
彼の手が離れ、温もりが消える。
喪失感が胸を満たす。
「ああ、もうすぐ終わるよ。……子供は? そっか、もう寝たか。うん、すぐ帰るから」
『すぐ帰るから』
その言葉が胸を締め付ける
彼の愛情は本物だろう。
だが、彼には帰る場所がある。
それもまた、揺るぎない現実だ。
席に戻った彼は、罪悪感を滲ませながら「ごめん」と呟いた。
「大丈夫です」と返すのがやっとだった。
答えのない問い

「……そろそろ、出ようか」
それは魔法が解ける時間を告げる鐘の音のように響いた。
駅までの道、ほとんど言葉はなかった。
タクシー乗り場で立ち止まり、彼は最後に言う。
「今日のことは後悔してない。さっき言った気持ちも、全部本心だから」
私はただうなづく。
帰りのタクシーの中で、今日一日の出来事を振り返った。
天国と地獄を行き来したような夜。
燃えるような幸福と、一本の電話が突きつけた冷たい現実。
私は彼の人生の「本当の物語」には登場できないのかもしれない。
愛と罪悪感、幸福と絶望。
その矛盾の渦の中で、答えのない問いを自分に投げかけ続けるしかなかった。
次回予告

外の世界から切り離された、甘く危うい時間。
けれど、その背後に影のように存在するものがあった。
次回「妻の影」――幸福の裏に忍び寄る現実。
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