「距離が縮まる瞬間」

この物語はシリーズでお届けしています。
第1章:出会い から読む


数あるお客様のひとりに過ぎないはずの彼。

けれど、何度か重ねた会話は、気づけば私の心を静かにほどいていた。

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仕事の外で

彼が「友達として」と言ってから、約1ヶ月が経った頃だった。

いつものように彼との時間を過ごしていた時、突然彼がこう切り出した。

「奈緒さん、今度、僕と一緒に飲みに行きませんか?ここじゃなくて、外で」

その言葉に、私の心臓は一瞬止まったような気がした。

仕事の場を離れて会う。それは、私たちの関係が明確に変わることを意味していた。

「でも……」

私は戸惑いながら口を開いた。風俗嬢が客と外で会うなど、あってはならないこと。それは店のルールでもあり、自分を守るための鉄則でもあった。

「友達なんですよね?」

彼は少し寂しそうに、でも確信を持って言った。

「友達なら、外で食事をしても、おかしくないですよね」

その論理に、私は返す言葉を見つけられなかった。

確かに、私は彼を友達だと言った。でも、それは建前だったのか、それとも本音だったのか

自分でもわからなくなっていた。

「考えてみます」

それが、私にできる精一杯の答えだった。

彼は優しく微笑み、「無理はしなくていいですから」と言ってくれた。

でも、その夜、家に帰ってからも、彼の提案が頭から離れなかった。

初めての連絡

3日後、私は迷いながらも、彼に連絡を取った。

店を通さない、プライベートの連絡。それは私にとって、大きな一歩だった。

「平日の夜でしたら、もしよろしければ……」

震える指でメッセージを打った。

彼からの返事は驚くほど早く来た。

「本当ですか!ありがとうございます。苦手なものとかありますか?」

その嬉しそうな文面を見ていると、私の胸の奥で何かが温かくなった。

こんなに素直に喜んでくれる人がいる。

私のことを、ただの仕事相手ではなく、一人の女性として見てくれている人がいる。

その事実が、私を幸せな気持ちにさせた。

約束の日、私は何を着ていけばいいのか、30分も鏡の前で悩んだ。

仕事の時の「奈緒」ではなく、素の私として会うのに、どんな自分を見せればいいのかわからなかった。

結局、シンプルなワンピースを選んだ。彼に会いに行く私は、風俗嬢の「奈緒」でも、完全なプライベートの私でもない、どこか曖昧な存在だった。

雨の日の偶然

約束の場所で彼と会った時、不思議な緊張感があった。

いつも慣れ親しんだ狭い部屋ではなく、薄暗い照明の小さなバー。

周りには仕事帰りのサラリーマンや、静かに語り合うカップルたちがいる。

私たちも、その中の一組のように見えるのだろうか。

「お疲れさまでした」

彼はいつものように、丁寧に挨拶をした。

でも、その表情にはどこか嬉しそうな色があった。

ワインを注文し、奥まったテーブル席に座った。

最初はお互い、どこか探るような会話だった。

仕事の場を離れると、私たちはお互いをよく知らない者同士だということを改めて実感した。

でも、アルコールが回ってくるにつれて、いつものような自然な会話が生まれてきた。

「奈緒さんって、普段はどんな映画を見るんですか?」

グラスを傾けながら、彼が尋ねた。

「最近、子供と公園に行ったんですが、すごく疲れました」

私も赤ワインを口に含みながら、彼の家庭の話を聞いていた。

他愛のない話。

でも、お酒と薄暗い照明が作り出す親密な雰囲気の中で、その一つ一つが私たちの距離を少しずつ縮めていく気がした。

そんな時、外で雨が降り始めた。

「あ、傘……」

私が困ったような顔をしていると、彼は立ち上がった。少しお酒が入って、頬が赤らんでいる。

「僕が送りますよ。代行を呼びますから」

「でも……」

「友達でしょう?」

またその言葉。

でも、今度は少し違った響きがあった。

ほんのりとお酒の香りを漂わせながら。

代行の車の後部座席は、バーとはまた違った親密な空間だった。

雨音が車体を叩き、外の景色を曇らせている。

ほんのりとお酒が残る私たちは、その小さな密室で、お互いの存在をより強く意識していた。

「ありがとうございました」

目的地に着いた時、私は心からそう言った。少しふらつきながら。

「また……」

彼は言いかけて、言葉を止めた。

「また、お店で」

私も同じように答えた。でも、お互いの心の中では、違う言葉が渦巻いていた。

心の距離と物理的距離

それから、私たちの関係は微妙に変化していった。

店での接客時間も、なんとなく前より親密さを増していた。

お互い、外で会ったという秘密を共有している。

その事実が、私たちを特別な関係にしていた。

「この前は、ありがとうございました」

彼は店での接客中に、小声でそう言った。

「いえいえ、こちらこそ」

私も小さく答える。

でも、その短いやり取りに、他の誰も知らない親密さがあった。

時々、彼の手が私の手に触れそうになる。

以前なら何でもなかった、自然な接触。

でも今は、その一瞬一瞬に電気が走るような感覚があった。

彼も同じことを感じているのだろう。

触れそうで触れない、微妙な距離を保とうとしているのがわかった。

「奈緒さん」

ある日、彼は私の名前を呼んだ。

いつもより少し低い声で。

「はい」

私も、いつもより少し小さな声で答えた。

その瞬間、私たちの間に流れた空気は、確実に「友達」のそれではなかった。

でも、どちらからともなく、視線を逸らした。

まだ、越えてはいけない線があった。

越えてはいけない線

「奈緒さん、僕……」

また別の日、彼は何かを言いかけて、やめた。

私にも、彼に言いたいことがあった。

でも、それを口にしてしまったら、私たちの関係は完全に変わってしまう。

彼には家庭がある。奥さんがいて、小さな子供がいる。

私は風俗嬢。彼はお客さん。

どちらの立場から見ても、この感情は間違っている。

でも、間違いだとわかっていても、彼への想いは日に日に強くなっていった。

彼の笑顔が見たくて、彼の声が聞きたくて、彼と過ごす時間が愛おしくて。

「友達」という言葉で自分たちを縛り付けようとしても、心はもうその枠を超えてしまっていた。

ある時、彼が帰り際にこう言った。

「奈緒さんに会えて、僕は本当に良かったです」

その言葉の重みに、私は胸が苦しくなった。

「私も……」

と答えかけて、やめた。

その先の言葉は、きっと取り返しのつかないものになる。

でも、心の中では、すでにその言葉は完成していた。

私も、あなたに会えて良かった。

あなたがいてくれて、嬉しい。

もう、友達という関係では満足できない。

私たちは、越えてはいけない線の手前で、立ち止まっていた。

でも、その線は、日に日に薄くなっていく気がしていた。


次回予告

笑顔、仕草、何気ない言葉。
気づけば私は、彼を特別に感じ始めていた。
次回「初めて触れた瞬間」――越えてはいけない境界線を踏み出す。


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